朝のドタバタ

2008-02-04-Mon-23:50
朝の食事のときNHK朝ドラで癌で手遅れ、死期間近というシーンがあった。
それをみて、かみさんが、言った。
「あなたが、癌で打つ手なしと宣告されたらどうするの?」
道楽人「そりゃ、一つの病院だけでなくだめもとでも幾つか病院わたりするさ。」

かみさんは、ちょっとムッとした表情で、
「なんで、そう、自分のことしか考えられないの」
「銀行の名義を私に変えとくとかするべきじゃないの?」

はーーーー?
「そんな、すずめの涙ほどの預貯金なのに心配するなよ。」
「第一、遺産は妻子に決まっているんだから心配する必要なんかないんだよ」
「外に子供でもいれば別だけれど、そんなことあるわけねーだろ」
「そもそも、自分のことしか考えてないのはどっちだよ。」

と、それを聞いていた娘が、口の中に、ご飯をいっぱい詰め込んで早食いしていたところ、噴出してしまった。
「まったく、朝からそんな面白いこと言わないでよ。」と怒りながら学校に行くことになった。

まったく、朝の忙しいところをドタバタしてしまった。

ところで、よく考えれば一番怒りたいのは俺だったはずなんだよ。
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「恵方巻きなんて」と思いながら食べる

2008-02-03-Sun-23:14
 今日は節分。
 家で豆まきをやってみた。子供もおおきくなってしまったので、道楽人一人で「鬼はー外、福はー内」と大声を出して撒いた。
 昨年までは、大豆を炒って、撒いていたが、大豆では撒いた後、拾ったものを食べられないということで、今年は、南京豆にした。
 なんか、雰囲気が出ないが、たしかに、拾い集めたものもそのまま食べられるので、都合がいいようだ。
 さらに、最近は、恵方巻なるものが流行っているようで、家でも、今年は、それを作って食べてみた。
 今年は、南南東に向かって、ニタッと笑って食べるとか。
 業界に乗せられた行事がまた一つ増えたという感じだが、それも良いかなっと、思う。

海の都の物語 下 その5 ヴィヴァルディの世紀、ヴェネツィアの死

2008-01-31-Thu-23:54
塩野七生シリーズ
海の都の物語 下 その5

◆ヴィヴァルディの世紀、ヴェネツィアの死

ヴィヴァルディといえば『タラッタッタッタララー、タララッタッタタララー、タララッタッターラーラー』の『四季、春』を思い出す。
 今日、仕事をしているとき、同級生のE君とアイーダの話になって、どんな曲だったっけ。誰でも知っている曲のはずなのに思い出せない。と、仕事そっちのけで話に花咲いてしまった。しばらく考えて、そうそう、「たんたーん、たたたたったった、たたたたーたた、たったたーたた、たったたーたた、たたたたー」だ。
 オペラは、見たこともないし、好きでもないが、この曲は覚えている。いい年した男ふたりで、身振り手振りつきで、アイーダの凱旋行進曲をハモってしまった。音楽はやっぱりいいもんだ。
 アイーダのヴェルディは150年も時代が下った時の人だが、ヴィヴァルディや、それ以前から、文化の先進地はやはりイタリアだった。
 ところで、この本を読むまで、道楽人がヴェネツィアの貴族の生き方として思っていたのは、イギリス貴族とゴッチャになっていたのかも知れないが、都会の金融で稼ぎ、田園でのんびり暮らす。と思っていた。それが、17世紀までのヴェネツィアはまったく違っていた。道楽人が思っていたヴェネツィアが現れたのは、この「ヴィヴァルディの世紀」からだった。
 「貴族的」という羨ましいような暮らしをしていれば、面倒な政治や、商売のことなどどうでもよくなってきてしまうのだろう。政治を担うべき人のやる気がそがれてきてしまったと言う事だと思う。
 ベネツィアの死ではナポレオンとのやり取りを時間を追って詳細に書かれている。
 ナポレオンの揺さぶりに対して、老練に肩透かしをしているつもりだったが、そのようなワザはまったく通用しない時代になってしまった。

 **引用**
 正面にティントレットの大壁画、天井にはヴェロネーゼ描くルネサンス期の傑作、周囲は、これまたヴェネツィア派の絵画を総動員して描かせた、共和国の数々の栄光の場面に囲まれた広い議場には、沈痛な空気だけが支配していた。その中で、投票だけが、やり慣れた機械的な正確さで進む。結果は「平和」に賛成のもの五百九十、反対のもの7、態度未決定14であった。
 しかし、この結果の出る少し前、ナポレオンはヴェネツィア共和国に対し、公式に宣戦を布告していたのである。
 ******

 「二大帝国の谷間で」の最初に出てきた言葉、
 「強国とは、戦争も平和も、思いのままになる国家のことであります。わがヴェネツィア共和国はもはや、そのような立場にないことを認めるしかありません」
(16世紀の外交官フランチェスコ・ソランツォ)

 この言葉の究極の状態になってしまった。
 宣戦布告を受けて、ヴェネツィアは一戦も交えることなくナポレオンに脅しに屈してしまう。
 1797年5月12日、共和制を廃止し、民主制の政体に変えると宣言した。
 ソフトランディングというか、一国の盛衰を人の命にたとえれば老衰に違いない。天寿を全うしたということか。

 一国の栄枯盛衰を『政治の技術』をメインに経済、戦争、文化と織りあげて行く手法は道楽人にとってとても新鮮だった。
 日本という国の歴史にも戦争は沢山あったが、ヨーロッパに比べれば、本当に平和な歴史だと改めて知ることができる。
 明治以降戦争が多くなったのは、欧米化のためであることも違いない。

 話が散漫になってしまい何を言いたいのかわからなくなってしまったが、(稚拙な感想だが)一番感じたことは、ワタシが現代日本に住んでいることの幸せを改めて認識したことでした。

 当初、上下それぞれ一つずつ書くつもりだったのが、3+5と合計8つも書いてしまった。
 だらだらと書いてきたが、これで、『海の都の物語』を閉じる。

カナレット
カナレット (Canaletto)
フランス大使の到着 1740作
史実は1726年

パラッツィオデュカーレの上の雲が真っ黒なのは57年後のベネツィアを予想していたのでしょうか。

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海の都の物語 下 その4  第11話 二大帝国の谷間で

2008-01-21-Mon-23:34
塩野七生シリーズ
海の都の物語 下 その4

◆第11話 二大帝国の谷間で

 下巻に入ってから全ての章について書いてしまったようだが、どうしても抜きたくないところばっかりだったのでついつい書いてしまった。
 この『二大帝国の谷間で』は16世紀のヴェネツィア外交官の一文から始まる。
 「強国とは、戦争も平和も思いのままになる国家のことであります。わがヴェネツィア共和国は、もはやそのような立場にないことを認めるしかありません。」
 時の移り変わりは、現代はものすごく速く、近代以前は極ゆっくりと動いていたと思っていた。たしかに、18世紀になるまで馬より早い乗り物が出てこなかったわけだが、世界情勢の移り変わりは相当にあったに違いない。それも、かなりダイナミックに。
 長い中世を越えてルネサンス以降になるとイタリア社会情勢は大きくうねりだす。
 ローマ以北はそれまで、小競り合いはあったものの外国の侵略からはなんとかこらえられていたのに、サッコディローマ以降はガラガラと音お立てて変わってゆく。
 「ローマ以北は」、と言ったのは、以前から南はロンゴバルド、ノルマン、フランスやスペインなど次々と征服者が入れ替わり立ち代りしたためなんだろう。

 ちょっと話が脱線するが、今のナポリの状況は中世から続く『自分たちで治めることのできないナポリ人まさにここにあり。』っていう感じですね。
 ゴミが町中に置き去りにされるまで、解決策を打てないなんて。
 おっと、『まで』でなく、そうなっても解決策が打てないなんて。
  と、この話は別枠で話しましょう。

 脱線ついでに、もうひとつ、この章の時代は塩野七生面目躍如。
 ルネサンス3部作や戦記3部作、チェーザレボルジア、ルネサンスの女たち、マキャベリなどなど。七生さんは沢山書いている。
 アンドレアグリッティー、アルビーゼグリッティー親子の話は「緋色のヴェネツィア」にも出てくるが、ヴェネツィアの元首とトルコの重臣となった子というなんともスキャンダラスな史実があったりした。
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ティツィアーノ・ヴェチェッリオ作
(TIZIANO Vecellio)
アンドレア グリッティ 肖像画
1545年
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ティツィアーノ・ヴェチェッリオ作
(TIZIANO Vecellio)
St Christopher
1524年 デュカーレ宮殿のフレスコ画


 とにかく、経済は好調なのに国際情勢からすると、ヴェネツィアはどんどん窮地に立ってくる。そんな様子を次の章の『地中海最後の砦』とあわせて淡々と語っていく。
 ローマ人の物語11巻「終わりの始まり」というタイトルがこちらにも当てはまるんじゃないかと思うような、いくら足掻いても、舵をどちらに向けても解決策はない。
 しかし、ヴェネツィア人としてのアイデンティティを最大限に示すことによってできるだけ健康に延命しているということを示しているのかな。
 七生さんはヴェネツィアが歴史上どこどこのどの時代と似ているとは言わない。
 また、決して日本の姿と重ね合わせることはしない。
 この『海の都の物語』が世に出たころは多くの日本人が、現代日本とこの物語を重ね合わせて見ていたそうだ。残念ながら、この書物の刊行から19年たった現代の日本が、ヴェネツィアではなくナポリの状況に似てきていると感じるのは道楽人だけであろうか。

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金華山のさば缶

2008-01-20-Sun-17:30
sabakan.jpg

 金華さば

 年末に近くの生協に行った時目立つところに置いてあったので気になっていた。
 たしかその時1個398円で なにーー「さば缶でこのねだんはないだろー」と思いながら、「でも一度は食べてみたい」と思っていた。
 今日、また店に行ってみると、まだ置いてあった。値段は298円になっていた。
 よく見ると、水煮、味噌煮、醤油煮と3種類あったが、「さば」と言えばやっぱり味噌でしょ。
 しかし、道楽人は缶詰のさば缶はどちらかというと水煮のほうが好きなので、迷った。
 缶の前でしばらく考えた挙句、水と味噌を買ってしまった。

 味噌のほうを食べてみたが、さすがに、うまい。
 腹側の脂身のところはなんともいえない。
 新鮮なさばを買ってきて家で煮魚にするのもいいが、とろけるほどよく煮込んだこのさば缶もいいもんだ。
 それにしても、普通のさば缶が99円だから298円というのは割高感を否めない。というのはビンボー人の愚痴か。
 「なめたらあかんぜよ。さば缶」

海の都の物語 下 その3 第10話 大航海時代の挑戦

2008-01-15-Tue-07:00
塩野七生シリーズ
海の都の物語 下 その3

◆第10話 大航海時代の挑戦
 道楽人がヴェネツィアと大航海時代と言って連想するのは、「大航海時代に乗り遅れたヴェネツィア」でそれがためにヴェネツィアは没落していった。と思っていた。
 ところが、七生さんは違うと言う。
 ******
従来の歴史学者たちは、大航海時代の到来とトルコ帝国の強大をヴェネツィア衰退の2大要因としてきたが、香味料貿易の衰退でもわかるように、この二つはヴェネツィア経済にとって必ずしもマイナス要因として働いたのではなかった。
 ******


 大航海時代の幕開けが1492のコロンブスのアメリカ発見や1499のバスコダガマの喜望峰回り航路の発見であった。
 1479年トルコとの講和が成立して二十年ほどで東地中海交易をほぼ独占状態にしたヴェネツィアだった。
 そこに舞込んだ喜望峰回り航路発見のニュースはヴェネツィア人にとっては相当ショックだったようだ。
 当時、楽観派、悲観派それぞれいたらしいが、100年レベルでみれば、悲観派の大はずれだった。
 物を運ぶには喜望峰回りはあまりにもリスクが高すぎたし、スペイン人もポルトガル人も商売下手だった。さらに、西洋の産業の発展、トルコの盛隆で需要の大きな拡大があって、ヴェネツィアの経済も16世紀に大きく発展し東西交易の主役はヴェネツィアが確固たる地位をしめていた。
 さらに、交易危機に対応するために奨励したガラスや毛織物産業などの各種産業振興が大当たりでこれは、規模こそ小さくなったが今に続いている。

 なぜヴェネツィアが外洋に出て行かなかったか。
  ==>出てゆく必要がなかったから。  それは、正しい判断だったが、それはまたヴェネツィアらしさを失っていくことにもなる。
 もし出て行ったとしてもヴェネツィアらしさを失わなければ(領土欲を持たなければ)大西洋の覇権は持てなかったであろう。

willaerts.jpg
Abraham Willaerts
A coastal scene with numerous figures on the shore, a Dutch man-o'war firing its cannon beyond
1633年


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歳の神

2008-01-14-Mon-16:21
sainokami.jpg

1月14日 今日は歳の神(さいのかみ)
正月飾りや昨年お世話になった達磨や神事の飾り物を焚き上げる日。
今までは近所の神社で行っていたので、そちらでお願いしていたが、今年から中止ということだったので市で実施する歳の神にお願いすることにした。
 今日の夜は行けないので、昼ごろ置いてきたが、もう準備は始まっていた。
この写真のところに、焚き上げる正月飾りなどをこれから取り付けるところのようだった。
高さ5Mくらいはあるだろうから、炎は10M以上にはなると思う。
 
 最近は、ダイオキシンとかうるさくなったので、その辺で勝手に火をつけることができなくなったが、市内でもいくつかのところでは小さいけれども地元で歳の神をしている。
 道楽人も子供のころは家の近くの歳の神で火をつけたとき、棒の先に網ワタシをつけてもちを焼いたり、スルメを焼いたりして食べたのを覚えている。
 こういう行事は続けていきたいものだ。

海の都の物語 下 その2 聖地巡礼パック旅行

2008-01-09-Wed-23:38
塩野七生シリーズ
海の都の物語 下 その2

◆第9話 聖地巡礼パック旅行
 海の都の物語は政治、戦争などがメインになっているので、どちらかというとテーマが重いかもしれない。その中でも、上巻の「ヴェネツィアの女」と同様に清涼飲料のような章でお気軽に読み進められる。

 さて、聖地巡礼がパック旅行だったとはびっくり。
 よく考えれば、初めての旅行で、しかも危険な敵地に行くわけだから案内人が必要なのは当たり前なのだが、5百年も6百年も前にトラベルエージェントなどよく考えたものだった。
 しかも観光ガイドのようなものや、行けない人のため、せめて行った気分にさせてくれる旅行記など現代とまったく同じじゃないか。
 物語はサント・ブラスカという35歳のミラノの公務員がヴェネツィアからの海路でイェルサレムに向かった旅行記をもとに書かれている。ほぼそっくり旅行記を載せていることもあって当時の様子がとてもよく読み取れるようになっている。
 半年から1年がかりの大旅行で、休職中の仕事の補間と亡くなったときのための後継を手当てして行ったそうだ。(今のサラリーマンなら、戻ったときのデスクがないのでは?と不安になってしまう =笑=)

 なかでも、道楽人が笑ってしまったのは、キリスト教の免罪システムだ。と言ったら、現在のキリスト教徒からお叱りを受けるかもしれないが、許してください。

pilgrim.jpg 人間は、生きていること自体が罪みたいなものだから、どうしても罪ポイントがかさんでしまう。それが、聖地巡礼をすると、どこどこを巡礼すると7年と40日、また、どこどこを巡礼すると完全免罪。とか。
 イェルサレム巡礼の場合たいていひとつのポイントが7年と40日だそうだから、5箇所も回れば、35年くらいにはなるわけで、巡礼以降、戻ってから悪いことをしても許されるってか?
というか、完全免罪を1箇所巡礼すればそれでOKなはずだけれど多くの人は「折角遠路はるばるイェルサレムまで来たのだからあちこち回りたい」と思うのは当たり前ですね。
 人間、普通に生きていれば必ず罪作りなことをしてしまうわけで、それに目をつけたキリスト教が、『免罪』というなんとも『うれしい』ご褒美を分けてやるわけだから良いシステムを作ったものです。
 またさらに、それを利用して、ヴェネツィア人はパック旅行を商売にしたのだから『たのしい』ものでした。
 とにかく、この章はたのしい。面白い。

 それにしても、今の旅行はヨーロッパでもせいぜい2週間とかのあわただしい旅行しかできないのも寂しいものです。さらに、さらに2週間どころか1週間の休暇もなかなか取れないのが涙。。。。

ヤン・ファン・エイク(Jan van Eyck)
The Ghent Altarpiece: The Holy Pilgrims
1427-30

海の都の物語 上・下  中央公論社刊(中公文庫) 1989年・・・絶版
海の都の物語 上・下 (塩野七生ルネサンス著作集4,5) 新潮社刊 2001年

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海の都の物語 下 その1 第8話 宿敵トルコ

2008-01-07-Mon-00:33
塩野七生シリーズ
海の都の物語 下 その1

第8話 宿敵トルコ
 塩野さんの著作にある、戦記3部作を思い出す。まさにヨーロッパvsイスラムの構図である。
 ヨーロッパの中でもいつもその最前線にいたのはヴェネツィアであった。

 1300年ごろアジアに現れたオスマンは、常に領土拡大を目指し、1350年頃になるとヨーロッパとアジアの境であるダーダネルス海峡を渡ったガリーポリを占領するまでに広がった。
 ここにきて、ヨーロッパキリストとオスマン・イスラムのガチンコが始まったのである。

 その後、東のモンゴルの末裔であるチムールにたたかれたりして、勢力が一時弱まったものの、領土拡大は続き、スルタンマホメット2世になるとビザンチン帝国の最後の砦であるコンスタティノープルも陥落して、オスマンの首都イスタンブールとなってしまった。
 その後も、オスマントルコの拡張欲はとどまることが無かった。
 黒海沿岸、コンスタンティノープルを拠点にしていたヴェネツィアがコンスタンティノープルの陥落と共に消え去っていかなかったのは、やはり不思議だ。

 いくら巨万の富を持っていると言っても、人口はわずか十数万の都市国家である。それなのに、圧倒的な軍事力を持つオスマンに一気に叩かれることは無かった。
 一言で言えば、『組織力』なんだろうが、危機のときほどその組織力が発揮されたんだろう。
 当てにならない周りのキリスト国家よりイスラムとの講和を選択するのをためらわないのもヴェネツィアらしい。
 1479年の講和後について七生さんは次のように書いている。
*********
 しかし、新興国トルコとの対決は、ヴェネツィアに、時代の流れが変わったことを悟らせる。15世紀後半のヴェネツィア人は一世紀前のジェノヴァとの戦いを郷愁を持って思い出したのではないだろうか。ジェノヴァとの戦いは、それが、いかに激烈でも所詮二国の持っていた条件は同じであった。そして、条件に基づく価値観も同じだった。これらが同じならば、勝負を決するのは、それらの活用能力の差である。ヴェネツィアはそれらが優れていたからジェノヴァに勝てたのである。
 ところが、トルコはまったく違う。彼らとの間の勝負を決するのは、能力ではない。量なのである。大砲に着眼したマホメット二世は天才だが、戦いを決したのはトルコの兵の数であった。一声でヴェネツィアの総男子人口に匹敵する兵を集められる国に、どうしたら対抗できるであろう。ヴェネツィア人は戦争の規模が一変したことを認めるしかなかった。

*********
 この章では、スルタンマホメット2世の時代までのオスマントルコとの関わりをしるしている。
 この差が歴然としてくるのは、講和後の20年を過ぎてから、また、西にも大国が出現してヴェネツィアの立場は苦しくなってくる。これは後ほど。

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ジェンティーレ・ベッリーニ(Gentile BELLINI)
Miracle of the Cross at the Bridge of S. Lorenzo
1500年

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蛇足
 中国史などでもそうだが、封建制下の専制君主は残酷になるようだ。というか残酷などという感情を持っていては専制君主は務まらないのかもしれない。講和のしるしとして派遣された画家ベッリーニはマホメット2世に相当気に入られたらしいが、ベッリーニはある事件からマホメット2世から逃れるようにヴェネツィアに戻ったということだが、そのエピソードが相当残酷なので、印象強く残ってしまった。

エピソードとは、
 ある日、ベッリーニ作のヨハネの切られたばかり首(サロメの褒美としてのヨハネの首をはねたものと思う)を描いた絵をマホメット2世に見せたところ、マホメット2世は「大変素晴らしい絵だ」と褒め称えたが、「一点だけ違う!」と言った。それは、
 ベッリーニはリアル感を出すために切られた首から血管が飛び出して描いている。
 しかしマホメット2世は言う。「人の首ははねられた瞬間、血管は収縮して内側にのめりこむ。」
 そして、すぐさまマホメット2世は、一人の奴隷を連れてこさせて、その場で、首をはねて見せた。
 ベッリーニはそれ以来、恐ろしくなって、一時でも早くヴェネツィアに帰りたいと思ったのであろう。
 もし、 レオナルド・ダ・ビンチならばその瞬間を見たとき、まじまじと見たのではないか。などと考えてしまった。

新年会

2008-01-04-Fri-17:48
昨日、道楽人の住む地区の新年会だったので、行ってみた。

今年は、衆議院選挙になるだろうという年なので、議員さんも着ていた。

じゃーーん。「ひかえおろーーー。この紋所が目に入らぬか」
のあの人でした。

すっかり人のいいお爺ちゃんという感じになってしまいましたが、まだまだやる気十分みたいです。
 たしか民主党には定年があったはずなんだけど次の選挙では無所属ででるのかな?

起き上がり子法師と印籠は必須アイテムになっているようで、
「今年は、観光協会からなんかの賞をもらわんなんねーな」なんて下手なお笑い芸人より面白いスピーチでしたよ。
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